全島民160人が暮らす高台集落をのんびり散策

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ヘリコプターで青ヶ島に着いたのが10時前。宿は三食付きで(島には食堂はない)昼食は12時だというので、それまで集落を散策することにした。

自分は後から入手したんだけど、集落散策にはこの手書き地図が必須。
道のアップダウンも多くくねくねしているので、気をつけないと同じ場所をぐるぐる迷走してしまうのだ。村役場でももらえるが、週末に到着する人は事前にPDF版を入手しプリントしておこう。

ちなみに青ヶ島で人が住んでいる集落はここ岡部地区だけ。
他のエリアは水道などのインフラが整っておらず生活するのは難しいそう。

番地はなく、すべての住所が「〒100-1701 東京都青ヶ島村無番地」だ。

●青ヶ島村ホームページ─観光

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まずは青ヶ島駐在所。
まるでテロが日常化した国の米国大使館かのような塀構えにびっくり。
建物一階部分は外から全く見えない。

どんだけ物騒で治安の悪い島なんだ!?
・・・ということではなく、遮るものもない高台集落ゆえ、強風による建物被害が多く、その対策らしい。

「青ヶ島では駐在さんが刑務所に住んでいるんだよ」

なんて冗談話も。

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さらに青ヶ島本道をまっすぐ行くと・・・

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村役場。
手書きの観光マップをもらうことができる。

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村役場の近くにある、島で唯一の信号機。
他の離島同様、「必要性は皆無だけど、島の子供たちの教育のため」設置されているものなのだろう。

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小中学校には巨大なプールが作られている。
周りを海に囲まれた島だけど、子供が泳げるような場所はここにはない。

道をはさんで反対側にある体育館もかなり大きかった。

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校舎も立派でグラウンドも広い。
ちなみに小中学校あわせて生徒数は確か30人いなかったと思う。高校はないので、中学を卒業すると島外の高校へと進学することになる。離島の子供たちの巣立ちは早い。

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郵便局。

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当然だが、島には銀行もコンビニもないので、現金の他にカードを持ってくるなら郵貯カードだ。ありがたいことにATMは平日だけでなく土日も9時から16時まで利用できる。

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NTT。

そういえば、携帯の電波状況は予想外によかった。
自分はNTTドコモの回線なのだが、集落はもちろんのこと、外輪山の中のどの場所でもほぼ電波をつかむことができた。

もちろん圏外の場所もあるが、集落一歩でたらもう圏外だろうと覚悟していたので正直びっくりだ。恐らくアンテナが集落の高台に設置されていて、カルデラの中にいても見渡せる場所なのだろう。

auやソフトバンクも集落内では問題なく使えるとのこと。

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東電の発電所。
表札には「青ヶ島内燃力発電所」と書かれていた。
ディーゼルエンジンで640kWを発電している。

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島で唯一のスーパーは「十一屋酒店」。
食料品や生活用品をひととおり売っている。

そして観光客にとっては・・・

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お土産屋さんでもある。
ひんぎゃの塩青酎などを買うことができる(店内風景)。

この棚の下にたくさん積んであるのは・・・

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背中に大きく「還住(かんじゅう)」、そして胸のところに「Sprirts of 青ヶ島 ”KANJU”since 1785」と書かれた還住Tシャツだ。青ヶ島マニアには人気アイテムとのこと。

「還住」とは、1785年の天明の大噴火で生き残った島民が八丈島へ全員避難し、それから50年を経て再び青ヶ島へと帰還を果たした史実だ。

火山の噴火によって止む無く故郷の青ヶ島を離れ、50年余りの年月を費やして再び青ヶ島での生活の復興を成し遂げることが出来た事実は、柳田國男が昭和8年(1933年)に発表した「青ヶ島還住記」に取り上げられた。柳田が用いた「還住」という言葉はやがて苦難の末に青ヶ島住民が帰島を果たした事実を表す言葉として定着し、現在は八丈島と青ヶ島を結ぶ定期船の名前にも用いられている。また柳田は還住の達成に尽くした名主次郎太夫を、青ヶ島還住記の中で「青ヶ島のモーゼ」と呼び、その功績を称えた。

●還住 – Wikipedia

ちなみにここまでの施設はすべて「島にひとつだけ」だったが、ふたつあるものも。

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それが居酒屋。
ひとつは「居酒屋 杉の沢」。

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もうひとつが「居酒屋もんじ」。

夜になると島民や、島で働いている業者さんなどで大賑わいとなる。私も二晩とも居酒屋で楽しく過ごさせてもらった。

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宿も実は多い。
観光客自体はそれほど多くはないのだが、至る所で公共工事など行われていることもあり業者さんの数も多く、そうした人が長期滞在に使っているのだという。

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五洋建設は大きな事務所もあった。
港・トンネルなど、百数十億など、この規模の自治体としてはケタ違いの公共事業だからなあ。

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職員・教員住宅も多い。
島で暮らしている人の約半数は、仕事で島外から来ている人という話も聞いた。学校の先生も生徒数より多かったりする。

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ちなみに集落を歩いていて非常に気になったのは、窓をベニヤ板などで完全に目張りしてしまっている家が多いことだ。空き住宅も含まれると思うが、後で民宿オーナーの佐々木さんに聞いたところ、台風や爆弾低気圧などで強風にさらされることが多く、張りっぱなしにしてしまっている家も多いのだという。

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「この道降りていったら、海が見える崖の手前まで行けるんじゃないか?」

そう思って急な坂を下っていくと・・・

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突如現れた大きな建物。
後で知ったんだけど、これは島で唯一青酎を醸造している工場だった。

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別の道を下っていくと、両側はこんな草原。
ヘリコプターから見たきれいな緑に覆われた台地はこれだったのか。

与那国島をちょっと思い出す風景だ。

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下るにつれ、視界が開けぐるり島を取り囲む海が見渡せるようになってきた。

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村の共同牧場。
青ヶ島は牛の飼育も盛んだ。昔はバターも作って出荷していたというからびっくり。

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そして牧場の先で、道は行き止まりとなった。
当たり前だけど、やっぱり海まではつながっていなかったか。

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上を見上げたが、集落は丘の影で見えなかった。
場所的に恐らくヘリポートがあるあたりだと思う。

再び集落に戻って・・・

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佐々木卯之助翁の碑。
Wikipediaによると江戸幕府の大筒役で、農民が立ち入り禁止の相州炮術調練場で耕作していたため、青ヶ島遠島の刑に処せられ、そのまま青ヶ島で死去した人物だ。

●佐々木卯之助 – Wikipedia

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集落の南側、外輪山の内側に向かう通りを少し進むと、名主屋敷跡がある。

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入口にいたこの白黒の子猫が、私を見るとニャーニャー鳴きながら・・・

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まるで水先案内人のように、私の先を走り始めた。
そして何回も立ち止まって振り向いては、また跳ねるように前に進んでいった。

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おかげで、ひとりだったらちょっと不安にもなる無人の道を奥へと進むことができた。

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今はもう建物はなく、つる性の植物が絡みつく大きな木がうっそうと茂る中に、塀だけが残っている。

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八丈島にも残る、玉石垣だ。
人も住まなくなってどれくらい経つのだろう。積み上げた時のまま崩れることもなく残っていることに驚きを覚える。まるでジャングルの中の遺跡だ。

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その先には島で唯一のお寺・清受寺と・・・

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村の総鎮守・大里神社に続く道がある。
ここは入口を眺めるだけでよしとした。

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離島の聖域には一人で勝手に入り込まないほうがいいし、何より途中で心細くなる急坂にも思えたので・・・

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その代わり、地図に「とっても旧で狭い道です」と書かれていたマツミ荘の近くの「塔の坂」に入ってみた。いやー、ほんと急だった!!!

手書き地図には「青ヶ島の道は狭くて急な坂が多いので、車で入ってしまうと出られなくなる場合があります。無理な進入はやめましょう」と書かれていたが、実際そうだ。島の方や仕事で来られている方の車に何度か乗せてもらったけど、細くて急すぎる坂もがんがん突っ込んでいって度肝を抜かれた。不慣れな人だったらとんでもないことになる。

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あがりきった高台は村の墓地。

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全島民を率いて青ヶ島への帰還─還住─を果たした英雄、佐々木次郎太夫の墓もここにある。

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集落と海を見下ろせるいい場所だ。

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そこからも近い児童公園の一角には、還住の記念碑が設置されている。

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船に乗り右手を大きく掲げた人物が名主・佐々木次郎太夫。
全島避難から50年も経ったらこの時代、もはや大半の人が避難先の八丈島の生まれだったろう。

溶岩と火山灰に覆われ田畑もすべて壊滅した島を復興させるのは並大抵のことではなかったはず。島の人にとって島への愛着というのは半端ないものがあるんだなあと。

青ヶ島小中学校のサイトには、こんなことも書かれていた。

この「還住の島」の誇りは、中学校を卒業し、島外の高等学校へ進学した子供たちの心の支えにもなっています。

この高台集落は、岡部地区という名前で、のんびり見てまわっても2~3時間あればすべて回りきれると思う。手書き地図片手に、島の人達とも笑顔で挨拶しながら散策してみよう。

当記事はもともとWADA-blogに掲載していたものです/「tokyo reporter 島旅&山旅」というプロジェクトの取材レポーターとして、「青ヶ島」を二泊三日で旅し、記事を書いています。