<小型バイクでツーリング>九州一周沿岸ツーリング記

<小型バイクでツーリング>九州一周沿岸ツーリング記

<小型バイクでツーリング>九州一周沿岸ツーリング記

バイク歴2年半の初心者ライダー(♀46歳)が、赤いクロスカブ(110㏄)に乗って九州へ!総距離3,000キロ以上。2016年4月の大震災&豪雨で被害を受けた熊本・南阿蘇へも足を伸ばし、海岸線を時計回りにぐるり一周してきました。
はじめに目的&計画宿泊施設装備アクションカム関連サイト絶景スポット●ツーリング記録●映像
トップページテーマ別ビューポイント

歴史に学ぶ観光スポット

史跡多く、禁教の歴史や朝鮮出兵など学べる資料館も。長崎の原爆、水俣病、雲仙普賢岳の噴火など過去を学び今と未来を考える契機に。

宇佐神宮

写真

全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。

●宇佐神宮 - Wikipedia
●八幡総本宮 宇佐神宮

●中津唐揚げに宇佐神宮、国東半島を快走し別府温泉へ


臼杵(うすき)武家屋敷群

写真

東九州自動車が開通したことで、大分市から25分ほどで行けるようになった「臼杵(うすき)」。国宝・臼杵石仏が観光のシンボルとなっているほか、城下町として栄えた街並みには江戸時代に迷い込んだような石畳の路地が広がっている。

●臼杵観光 歴史を残す城下町と国宝臼杵石仏 | たびらい大分
●うすき観光 | 臼杵市観光情報協会

●大分なのに愛媛街道・佐賀関?~入り江連なる日豊リアスラインを走る


美々津伝統的建造物群保存地区

写真

美々津港は、今でこそ、小さな漁港にすぎませんが、かつては懐深い天然の良港として大いに賑わっていた。特に江戸時代は、高鍋の蚊口港とともに高鍋藩の商業港として重要視され、藩主秋月氏も、この港を参勤交代に利用していた。  なかでも保存地区に選定された上町、中町、下町の立縫区は、耳川河口に築かれた港の隣接地として、独自の発展をとげたところで、江戸時代から明治時代の建物が数多く残っている。

●日向市美々津伝統的建造物群保存地区 / 日向市文化財 - 日向市ホームページ
●みやざき観光情報 旬ナビ/日向市美々津重要伝統的建造物群保存地区

●太陽の国宮崎の海岸線を南下!~クルスの海・馬ヶ背・美々津


鵜戸神宮

写真

太平洋に突き出した鵜戸崎岬の突端にある洞窟の中に、朱塗りの色鮮やかな御本殿がご鎮座する珍しいものです。 岬のまわりには奇岩、怪礁が連なり太平洋の荒波が打ち寄せて、美しい景勝地となっています。 また、男性は左手、女性は右手で願いを込めながら運玉を投げ、亀石と呼ばれる岩の枡形に入れれば願いが叶うといわれています。

●鵜戸神宮|観光にちなんの旅 日南市観光協会
●鵜戸神宮 - Wikipedia

●日南海岸を走る~鵜戸神宮・魚うどん・都井岬


桜島噴火の災害遺構

写真

黒神埋没鳥居 - みんなの桜島

大正3(1914)年の大噴火で噴出した大量の火山灰・軽石は、上空8000m以上まで上昇し、火山灰は遠くカムチャッカ半島まで飛んでいったといわれています。 ここ黒神地区にあった「腹五社神社」の鳥居は、大正噴火後たった1日のうちに軽石や火山灰に埋め尽くされました。 もともと高さ3mあったという鳥居ですが、今は笠木部分の約1mを地上に見せるのみです。

●黒神埋没鳥居 - みんなの桜島
●桜島 - Wikipedia

●鹿児島在住の知人たちとランチ&開聞岳ぐるり一周


出水麓の武家屋敷群

写真

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところです。その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかりました。

●出水市観光協会 出水麓武家屋敷群
●出水麓武家屋敷群|観光スポットを探す|出水の観光スポットを検索|出水ナビ

●猛暑の熊本入り!水俣の今・未来~天草パールライン


水俣病資料館

写真

水俣病資料館は、水俣病を風化させることなく、公害の原点といわれる水俣病の貴重な資料を後世に保管します。世界のどの地域でもこのような悲惨な公害が発生してほしくないからです。あってはならない水俣病、水俣病患者の痛みや差別を受けたつらい体験を展示しています。語り部は起きたことを語ります。平成5年1月にオープン以来、国内のみならず、今では全世界から年間5万人の方々が訪れ、公害学習・環境学習だけでなく、人権教育の場としても活用されています。

●水俣病資料館
●水俣病 - Wikipedia

●猛暑の熊本入り!水俣の今・未来~天草パールライン


天草諸島の教会群

写真

永禄9年(1566年)、修道士ルイス・デ・アルメイダが志岐氏当主の志岐鎮経(麟泉)(下島・志岐城主)に招かれ、キリスト教がもたらされた。志岐には教会が建てられ、トルレス、ヴィレラ、オルガンチノらの宣教師も来島し、永禄11年(1568年)と元亀元年(1570年)には宗教会議も行われた。信仰は広まり、信者は1万5000人、教会堂は30あまりにも達したという。

●天草諸島 - Wikipedia
●熊本県天草観光ガイド

●天草を走る!~天草ちゃんぽん・教会めぐり


世界遺産「明治日本の産業革命遺産」:三角西港

写真

西洋風のモダンで美しい建築物がひときわ目を引く三角西港。明治20年(1887)に完成したこの港は、宮城県や福井県にある港と並ぶ"明治三大築港"と呼ばれる。756メートルにもおよぶ、石積みの埠頭と水路や、西洋建築物などは、築港後1世紀の時を経てなお、往時の面影を宿す。

●世界文化遺産・三角西港で不思議発見 | たびらい熊本
●三角港 - Wikipedia

●天草を走る!~タコ街道・海に伸びる道


熊本城

写真

熊本城は、平成28年4月に発生した地震により、大きな被害を受けました。現在、多くの部分が立ち入ることができませんが、二の丸広場や加藤神社、その周辺から、天守閣や櫓等がご覧いただけます。

●【公式】熊本城
●熊本城 - Wikipedia

●今しか見ることができない"被災"熊本城~南阿蘇へ


世界遺産「明治日本の産業革命遺産」:三池炭鉱万田坑跡

写真

三池炭鉱は團琢磨(だんたくま)等の努力により採炭技術の近代化が急速に進められ、明治、大正、昭和期を通じてわが国の近代化の牽引役を担い、各種産業の勃興、発展を促しました。 万田坑は三池炭鉱の一つの坑口です。荒尾市内と大牟田市内に散在する三池炭鉱の主要な坑口は、馬蹄形状に敷設された炭鉱鉄道により繋がり、三池港から石炭を運搬するインフラ整備が既に明治後半に出来上がっています。

●万田坑跡・三角西港 - 大牟田の近代化産業遺産ホームページ
●三池炭鉱 万田坑 | 九州の世界遺産

●熊本・佐賀・福岡・長崎と4県を走った日


雲仙普賢岳の平成噴火遺構

写真

メディアはこの火砕流の様子を捉えるため、避難勧告地域内ではあるが、溶岩ドームから4.0kmの距離があり、さらに土石流が頻発していた水無川からも200m離れていた上、40mの高台となっていた北上木場町の県道を撮影ポイントとするようになった。この場所は普賢岳を真正面に捉えることが出来たこともあってメディアに好まれ、いつしか「定点」という呼び名が定着した。こうして最初の火砕流が発生した24日以降、「定点」には10数台もの報道関係者の車両が並ぶ状況となった。1991年当時、報道各社は紙面にカラー写真を多用し始めており、普賢岳災害においても各社はカラー写真で競い合っていた。5月28日に毎日新聞が火砕流の夜間撮影に成功すると、競争は更に激しくなった。

●雲仙岳 - Wikipedia
●【最期のテープを復元】雲仙普賢岳火砕流 by Sordidaware - Dailymotion

●雲仙普賢岳の平成噴火について学ぶ


天草・島原の乱の舞台「原城」

写真

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。

●島原の乱 - Wikipedia
●島原の乱と天草四郎~ポルトガルの支援を待った70日に及ぶ原城籠城戦 -戦国武将1100記事

●雲仙普賢岳の平成噴火について学ぶ


長崎原爆資料館

写真

ここでは、被爆の惨状を示す多くの資料を大切に保存・展示するとともに、原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史など、ストーリー性のある展示を行っており、館外に向けても、県外での原爆展の開催や資料の貸し出しなどを行っています。また、館を拠点として、平和推進の取り組みや平和学習の支援も行っています。

●長崎原爆資料館 | 長崎市 平和・原爆
●長崎市への原子爆弾投下 - Wikipedia

●長崎市内~原爆資料館・出島ワーフ・稲佐山の夜景


平戸「田平天主堂」

写真

最初は民家を仮聖堂としていたが、本格的な教会の建設を計画する。信者の積立金に県内各地での募金やフランス人篤志家の大口寄付を加えて資金を調達し、信者の献身的な労働奉仕により、1918年に念願の教会ができた。設計施工は鉄川与助で、多彩なレンガ積み手法、ススを塗った黒レンガによる装飾など、与助のレンガ造教会の最高峰とも言われる。正面には八角形のドームを頂く鐘塔がそびえ、内部のリブ・ヴォールト天井も本格的である。

●田平天主堂|教会を訪れる|長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
●平戸・生月島エリア|ながさき旅ネット

●平戸島ツーリング


鄭成功記念館

写真

中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年7月14日平戸で生まれました。幼名を福松、中国名を鄭森と言います。 鄭成功は、わずか7歳で単身海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」と呼びました。

●鄭成功記念館 長崎県平戸市
●鄭成功 - Wikipedia

●平戸島ツーリング


名護屋城博物館

写真

佐賀県立名護屋城博物館は、特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」の保存整備事業と、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)及び日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、日韓の学術・文化の交流拠点となることを目的として平成5年10月に開館しました。

●名護屋城博物館
●文禄・慶長の役 - Wikipedia

●名護屋城に芥屋ビーチの日没

小倉城&松本清張記念館

小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種たかはしあきたねや毛利勝信もうりかつのぶが居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興ほそかわただおきによって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。

写真

●小倉城
●松本清張記念館公式ウェブサイト

●遂に最終日~小倉・門司港レトロ、そして関門海峡


門司港レトロ

写真

門司港レトロエリアには、明治から大正にかけて作られた建物が今でも残っています。 木造建築の門司港駅を初め、大正浪漫ただよう建物たちがエキゾチックな雰囲気を醸し出しています。 商業施設も充実しており、ミュージアムや美術館など歴史やアートを感じられる場所も多く、 ゆっくりと散策を楽しむことができます。

●門司港レトロについて
●門司港レトロ|北九州市公式観光情報サイト

●遂に最終日~小倉・門司港レトロ、そして関門海峡